ADHD&シェーグレン症候群ですが支援者です

障害&難病持ちの日常のふりかえりのひとりごと

やめられない…

いろいろやめられない

何かを始めてしまうとそれがなかなかやめられない。

例えば、研修資料を作っているとする。

時間を忘れて食事もせずに真夜中までやってしまうことがある。

なかなかキリがつかない。

他、漫画読んでたり、ゲームしてたり、動画見てたり、

みたいなことも、つい見すぎやりすぎ傾向。

過去、シュノーケリングで痛い目をみた。

海の浮遊感の心地よさと海の中のお魚たちを見てるのが楽しすぎて

休憩なしで1時間以上海の中にいたら、その後気分が悪くなってしまったのだ。

ガイドさん曰く、長時間海の中にいると、船酔いみたいになるようなのだ。

1時間以上は長すぎる、って、気分悪くなる前に知りたかった。

でも、普通の人はちゃんと休み休み楽しむものなのかもしれない。

夜更かし&朝苦手

私は朝起きることが苦手で、夜更かしするタイプ。

ちょっと前までは、私って夜型なんだな、って思ってたのだけど、

いやまて、これ、「やめられない」からなんじゃない?と最近思った。

朝は寝ることをやめられない、

夜は起きていることをやめられないのが、夜型っぽく見えていて、

実は発達特性の「やめられない」が影響しているんじゃない?と。

発達特性があり昼夜逆転傾向のお子さんと面談すると、

「寝たくない」「寝るのがもったいない」「やりたいことがある」

といったようなことをよく言っているのだけど、

まさに私もこれで、毎回、「わかる!わかる!私も!」って思いながら聴いている。

シェーグレン症候群という病持ちなので、

病状を悪化させないためのは規則正しい生活が大事みたいだけど、

できないんですよね・・・。

困ったものです。

今もこうしてブログ書いちゃってるし。

でも、もう2時だからさすがに寝ようと思います。

視覚情報が優位なので

視覚情報が優位な私は、目に入ると即行動してしまったり、思考を巡らせたりしてしまう。

思考の多動は私の良さでもあり疲れさせる原因でもある。

次々にいろいろ考えが思いが出てくるので、会話の途中話がずれて、あれ?もともと何話そうとしてたんだっけ?となること多々。

行動面では、例えば、2階に何か物を取りに行き、行くとほかのことが目について取りに行ったものを忘れて1階に戻る、なんてことも多々ある。

視覚情報から過去が想起されることもある。

毎日同じ通勤路なのに、想起されるときとそうでないときがある。その違いはなんなのだろう。

と、考えたところで沼にはまっていきそうなので考えないことにした。

この、考えないことにする、と決めることも対処法としては良い、ということに気づいた。

最近は、見ないようにする、も、できつつある。

これは言い換えれば「受け流す」ができるようになったとも言える。

考えちゃった、けど、その先考えるのはやめよう、とか、

目に入っちゃった、けど、もうこれ以上注視するのはやめよう、とか。

自分で自分の行動を止める、が、以前は全くと言っていいほどできていなかった。

少しずつできるようになって、よし、って思っている。

なりたい自分を思い描きながら生活すると変化できる、を体験している。

 

ある日、バスの中でことっと何かが落ちる音がした。

音のした方に目をやると、交通系ICカードとおぼしきものが裏返って落ちているのが目に入ってしまった。

以前の私は考えるより先に「これ誰のですか?」と声をあげていた。

とりあえず、それを見ないようにしてみた。

でも、やっぱり気になる。でも、そのカードに誰か反応しないかな?っと待ってみることにした。

しばらくしてバスに人が乗ってきたけどその人も無反応。

結局、カードを挟んで両方の席に人がいたのだけど、年配の方かなと思い、「これ、違いますか?」と声をかけた。

すると、まさかの声をかけなかった方が「私のかも!」と言い出し、でも、年配の方が「私のです、ありがとうございます。」とカードを拾い上げて収拾した。

私のかも!と言った方は何事もなかったように足早にバスを降りて行った。

きっと、私と同じ系統の方なんだろうな、と心の中でニヤッとしていた。

 

シェーグレン症候群は母のせい(私の私見)

弟からLINE通話がきた。

母(以下A子)のことでだ。

 

過日、叔父が亡くなり、

私と私の弟二人とで車に乗っていた際、

私はA子へ直接不満をぶちまけた。

何をかというと、私の娘二人がそれぞれ、

それぞれの家族でA子のところへ行くことについてだ。

 

そもそもA子は自閉症傾向で、一人でいることを好み、

コロナ禍はコロナを盾に一切訪問してくれるなと言ってきた。

それはまあ受け入れるしかないと思いつつも、

せめて父の命日くらいは手を合わせに行きたいと言ったのだが拒否。

これに関しても、まあ許せる範囲。

気分を害するのは自分だけだから。

 

ただ、今回は娘たちに害があった。

最初は泊って良いと言っていたくせに、予定していた日の約2か月前になり、

やっぱり泊りは無理、と言ってきたそうなのだ。

娘二人とも困ったということを私に伝えてきた。

泊る予定だった日は8月だったため、適当な宿がみつからないようなのだ。

特に次女は赤ちゃんがいるので泊れるところが限られる。

それなのに、そういった相手の事情を慮ることなく行動するA子。

さすがに私は堪忍袋の緒が切れて車内でこの話を持ち出し、

二度と娘たちに害のないようにと釘を刺したかった。

 

が、A子は口論の末、

「私が早く死ねばいいんでしょ!」

と飛躍したキレ方をした。

このときはこちらもキレていたので

A子の馬鹿さ加減に言葉にならず無言になった。

そして、落ち着いてから、

A子は認知症が始まって極端なキレ具合だったのか?と思い、

認知症チェックを弟に頼んでおいたのだ。

その結果をLINEしてきたのだった。

 

弟は、たぶん大丈夫、と言っていた。

とすると、老化由来か。

そもそもA子はいろいろな能力が低い上、向上心がない。

となると、いろんな力は下がる一方。

特に自分を客観視できないところはひどくて、

A子のひいきはあからさまなのに、自分はひいきはしていないと言い張る。

私の子ども達から見ても明らかなのに、である。

 

私はA子から身体的心理的虐待を受け、ヤングケアラーでもあった。

故に、A子のことが許せない思いが強い。

とはいえ、いろいろ助けてもらった部分もあるので、

金銭的にいろいろ返してきた。

が、もうそれもしたくない、と思った。

 

この思いを娘に話すと

「もういいんじゃない?母はいろいろやってきたのだから。」

と言ってくれた。

自分が子ども時代に過ごした家族は嫌い。

次男の方の弟がちょっとましってくらい。

だけど、自分が作ってきた家族は、みんな優しい。

ありがたいな、って思う。

 

弟は、血がつながった家族なんだから、と、べたなセリフを吐いてくる。

私は「産んでくれと頼んだ覚えはない」と言う考えで、

これは、高校生の時A子と喧嘩になった時に吐いて以来変わっていない。

生まれちゃったからしょうがない、できるだけ心地よく生きてやろう、

そう思っている。

だから、けっこう好きなように生きてきたし、

願いをかなえてきた人生だった。

なので少し前まではいつ死んでもいいかな、なんて思っていた。

 

でも、孫が生まれて変わった。

生きることに欲が出たのは生まれて初めてかもしれない。

孫が成人するまでは生きていたい、強く思うようになった。

すると、いつ死んでもいいどころか、まだまだ死にたくない、

と思うようになった。

それなのに、「シェーグレン症候群」と診断されてしまった。

長生きはできませんよ、と烙印を押された気持ちになっている。

それもこれもA子のせいと私は考える。

乳幼児期の虐待体験は、いろいろな病気になる確率を高めていることが

最近の医学研究で明らかになっているのだから。

 

A子には恨みつらみしかない。

血のつながった家族を恨まなければならないこの辛さ、

だれがわかってくれるのだろう。

つらいならA子を許せばいいといわれるのかもしれない。

もう、それもさんざんやってきた。

許そうとしても、許せないくなるような行動をA子がとる、というのが私の捉えだ。

 

ここまで言語化して思った。

恨む自分を許すしかない。

そんな自分でもいいんだよ、

と、自分で自分をゆるすしか、ないの、かも。

シェーグレン症候群と診断されました

今日もやってしまった。

趣味のチーム競技、バルーンバレーと言うビーチボールを使った競技で、

アウトのボールを追いかける青年に向かって、

「触んなーっ!!」

と大声で叫んでしまったのだった。

 

つっこみどころは二つ。

まずは言葉遣い。

ないわ~って。

触んなって、わが子が幼稚園児の時に使って以来なのでは?て思う。

好青年に向かって使う言葉じゃない…

あと、大声で叫ぶって…。

独り言くらいにしとけばいいのに、って思う。

言っちゃった直後に反省。

 

知的に問題ないせいで、

ちゃんと反省できちゃう。

だからこそしんどい。

知的に問題があったら、

振り返って落ち込むことないんだろうな~って思う。

知的に問題ないことで得することもあるけど、

苦しむことも多々ある。

 

言い訳になるが、

実は今日、ちょっとやけくそ気味でバルーンバレーに参加していた。

本日「シェーグレン症候群」と診断名を告げられたからだ。

これも、ADHD同様数年前から疑っていた。

約5年前、初めてレイノー現象を体験しめちゃめちゃびっくりした。

私の指、死んじゃうの?と。

以前は冬にしかお目にかからなかったレイノー現象だったが、

冬以外も出るようになっていた。

それよりなにより辛いのが「乾き」だ。

人と話していると、

口の中が乾きすぎて上あごと舌がくっついてしゃべれなくなった。

目や鼻の中も乾いている。

目は目薬で対応できていたが、鼻の奥の渇きはなかなか不快である。

鼻の奥にできてしまった塊がかんでもか出てこないこない。

その他の症状としては、

唇が数日ごとに脱皮し、常に炎症気味で塩や醤油が唇に触れただけで痛みがある。

今までなんとかなっていた車通勤が出勤時の道中で眠くなってしまう。

そういった辛い症状をかかりつけ医に伝えたところ、紹介状書くか、となった。

かかりつけ医には

「疲れがとり切れないんだね、点滴打って少し寝てく?」

と言われたが断った。

夏休み中だからだ。

夏休み開けて仕事が始まってダメだったら点滴頼もうと思う。

 

ADHDを告げられた時は安どの涙がこぼれたが、今回は涙がにじんだ。

正直、なんで私ばっかり…という思いからだった。

私はまだまだ仕事を頑張りたかった。

毎日スクールソーシャルワーカーの仕事ができている人がうらやましい。

私にはその体力がないし、集中力もない。

あぁ、いろいろできなくなっていたのは、

年齢やADHDのせいだけでなく、

シェーグレン症候群も関係していたのだな、きっと。

去年公認心理師落ちたのも、病気が関係していたんだ、きっと。

でも、約7年前社会福祉士の勉強の時は、病気の兆候はなかった。

それは不幸中の幸いだ。

そうだ、社会福祉士はせっかく得られた資格。

やれることをやれる範囲でやっていくしかない。

寿命も縮まったかもしれない。

一日一日を自分らしく

人と比べず

生きていきますか、ぼちぼちと。

 

 

 

余計なものは持っていくのに…

教科書エピソード

スクールソーシャルワーカーとして発達障害を持つお子さんの支援もしている。

その日はケース会議をAさん本人を入れて行っていた。

最近の小学校は、置き勉OKとなってきている。

教科書を学校においていくことができるのだ。

自分の子ども時代を思い出すと、高校は教科書を置いていくことができた。

このとき、カバンが軽くなってかなり喜んだことを覚えている。

中学まではすべて持ち帰り。

今はほぼ使われていない「学生カバン」がしばしば「豚カバン」になっていた。

高校生になりすっきりした「学生カバン」を持って登校できていることがなんだかかっこよく思えていたし、何より徒歩で通学していたのでカバンが軽いことはかなりありがたかった。

話をケース会議に戻し、Aさんは発達障害由来のこだわりのせいか、教科書を全部持って帰ってしまう。

持って帰ってまた学校に持っていければいいが、一部を忘れてしまう。

なので、B先生が「置いていきましょう!」と威圧的に伝えると、Aさんはしぶしぶ「はい」と言った。

私が「ほんとにできるの?」と問うと「むり」と正直な返事。

じゃあどうしようか、と教科書の話は振出しに戻ってしまったのだった。

必要なものを忘れる

私も余分なものを持っていくことはよくある。

普段使いのカバンもぱんぱんで、持ってくれた友達に「重いね」と言われたことがある。

また、泊りに行くとなるとこれまたいろいろ持っていきたくなる。

よし!この機会に本を読むぞ!と何冊も本を持っていくが、結局1冊も読み終えられなかった、なんてことはよくある。

汚したら?寒かったら?といろいろ考え、洋服の類も余分に持っていく。

夫には、もしもの時は買えばいいのに、と言われること多々。

そして、余計なものは持っていくのに、必要なものを忘れることも多々。

最近は立て続けにマスカラを忘れ、今家には3本のマスカラがある。

冬はハンドクリームを忘れ、三つくらい家にあった。

ボディクリームも同じようなことがあった。

生理中なのに生理用品を忘れたこともあったな~。

今どきは遅い時間までやってるドラッグストアのおかげですべて金で解決できている。

昔はどうしていたのかな?

コンビニの類ができる前のADHDさんはどうしていたのかな?

今はだいたい買いに行けるけど…。

あ、助け合ってる時代だったから大丈夫か。

そういえば、母や近所の人が夕飯時にしょうゆやみその貸し借りしてたな~。

という話をしたら、え?それ戦後すぐの話?

と言われたことあるけど、昭和50年代の話です。

時間が守れない、けど、ま、いっか

幼稚園を遅刻

基本的に時間を守るのが苦手。

幼稚園児の時は遅刻魔だった。

幼稚園は歩いて登園、今のように大人の姿はなく、子ども達だけで通園していた。

私が登園するころはだれ一人歩いていない。そう、私はほぼ毎日遅刻していたからだ。

ある日、しびれを切らした担任が、「なんでヒロちゃんはこんなに遅いんですか?」と怒り口調で聞いていきた。

「テレビ見てた。」と平然と、いや、テレビ見てから幼稚園来て何が悪いんですか?と言わんばかりの返答をしたところ、担任の先生にあきれられてしまい、聞かれたのはこの一度だけ。

母は私が言うことを聞かない子とあきらめていたのか、早く行けと言われた記憶はないけれど、もしかしたらその言葉が耳に入っていなかっただけかもとも思う。

小学校からもず~っと

小学校で分団登校していた時も、集合場所には走り込みセーフで到着すること多々。

こんな滑り込みセーフは中学、高校、短大へと続く。

高校では、8時半に校門が生徒指導の怖めの教員により、ガシャーン!と閉められる。

もちろんこれに遭遇したことがあり、あれに挟まれたら痛いな、なんてことを考えていた。

短大は2時間かけて通学していたが、直線距離だと車で30分程度の場所だった。

遅刻魔の私は、もう今日遅刻すると単位がやばい、と言う日、いつも通り通学すると遅刻と困った末、弟のスポーツチャリで行くことにし、見事遅刻を免れた。

なんと、自転車だと1時間で行けた。

卒論提出も提出日まで仕上がらなかった上、風邪をひいていた。風邪でしんどいので、いたしかたなくタクシーで短大へ。あのころはまだそれほどタクシー代も高くなく、3000円程度ですんだが、貧乏短大生には痛い出費。

とはいえ、卒業旅行もあきらめていてお金に余裕があったので、留年するよりは安いと考えた。

社会人になっても

遅刻魔傾向は社会人になっても続いた。

短大卒業し、教員になり、自転車で通勤していた。

お金と時間がなく、車の免許を持っていなかったからだった。

自分が中学時代に通った通学路を今度は通勤路として自転車で通る。

慣れた道なのですいすい行き、時には中学生をごぼう抜きしていた。

通報されてもおかしくない荒い自転車運転だったと思う。

その理由はもちろん遅刻しそうだから。

ある日は始業3分前に職員室に息を切らせて入室。

あんなころは朝の職員会議が毎日あり、私が息を切らせて入ってくるところを全教職員が目にした。

あれはかなり恥ずかしく、学年の先生が「滑り込みセーフだね」と苦笑いで言ったことを今も覚えている。

そもそも、あんなころは若手の先生は始業30分前には学校に来て、先生方の机を拭き、全職員のお茶を入れていたのだった。

私が赴任した学校は新任が私を含め4人いて、いつも3人でそれをやってくれていた。

私はこれに対しちっとも申し訳ないと思っていなかった。

やりたい人がやればいい、そんな考えだったからだ。

では、私は1度も机拭きお茶入れをしなかったかと言えば、そうではなく、雨の日は母に車で送ってもらうので早く到着し、他の3人と一緒にやっていた。

とここまで書いて思ったのだが、「そもそも」~「やっていた」までは、時間が守れない話からずれている。こういったところが思考の多動かな?って思うわけです…

で、話戻し、

わけあって教員をやめ、次に就いた職では、バスで通勤。やっぱり滑り込みセーフな日々だった。といった感じで続いていった…

最近ちょっといいかも

時間守れるようになってきたかも?と思えるようになったのは、実はごく最近。

半世紀を過ぎてからなのだ。

朝は、出たい時間の1時間前に起きれば間に合うことに最近気づいた。

それまでは30分から40分前に起きていた。その理由は朝が苦手だから。朝が苦手については、別のブログに記そうと思う。

話を戻し、朝以外、仕事以外だと遅刻しそうになることしばしばだ。

会議のためだけに出勤というときは、何時に家を出るか決められなかったり、うっかり時間を間違えたり。

ある会議には、30分早く着いてよかった、と思っていたら、ちょうど開始時間だった、ということに5分近く過ぎてから気づいて青ざめた。

すぐに会議室へ行くと、教頭先生が「私が開始時間を伝え間違えてしまったようです。」と言ってくれた時には涙が出そうにうれしかった。

こうやって守ってもらえる今の仕事は今の私にとってベストなんだと思える。

時間が守れない自分と共存

振り返って思うのは、幼稚園は遅刻してたけど、小学校以降は遅刻しそうが続き、今はしそうな日も減っている、ということは、私なりに成長してるってことだ!

そして、仕事以外の遅刻は、「ごめんなさい」が言えたらOKと自分を許すことにした。

相手に失礼と言うことは重々わかっている。でも、なぜか時間配分がうまくいかなかったり、出かける間際に何か思い出して出発時間が遅れたりと、なんだかうまくいかない。

できない自分もしょうがないといい意味であきらめることも、自分の特性と共存していくために必要と思うようにしたら、ちょっと楽になった。

 

 

 

 

三つの小学校に通った

行動が荒っぽい

子どものころ、母に「男に生まれたらよかったのに」とよく言われていた。

その理由は、母から見て無鉄砲な行動が多かったからだと思う。

父親がプロレス中継をよく見ていたことが影響してか、私は抵抗なく人を蹴ったり叩いたりする女の子だった。

今思えば特殊な部類かもしれない。

ある日、弟がブランコを取られたと言って泣いて帰ってきたとき、姉ちゃんが取り返してやる、と言って、小学生に向かってブランコを返せ!とすごんだのは、私が年長の時だったように思う。

私は体が大きかったし、普段弟とのけんかで負け知らずだったせいか、負ける、という概念がなかったのかもしれない。

その小学生は、自分が悪いことをした自覚があったのか、ブランコを返してくれて一件落着した。

1回目の転校

こんな幼児期を過ごした私は、小学生になるとたった1年で転校した。

転校先の学校では男子に目をつけられた。

もともとそこに住む人が多く、よそ者への抵抗が強い地域だったのかもしれない。

ある日、その男子とのやりとりで腹が立つことがあり、その男子を蹴り飛ばしたら、そいつは泣いてしまった。

そして、反射的に自分も泣いた。

すると、先生に怒られたのはその男子。泣かせたのは私だったのに。

そいつ、私のこと恨んでるかもしれない。

が、私は2年もたたないうちにまた転校した。

2回目の転校

次の学校は新興住宅地の学区であったからか、ウェルカムな雰囲気だった。

転入した初日、転入生への質問として、男子に「体重は何キロですか?」と聞かれ、恥ずかしげもなく正直に答えたところどよめきが上がったことを今も覚えている。

答えたからなのか、予想外に多かったからなのかは定かではない。

ただ、今思えば、一般的な女の子は、恥ずかしがって答えないのかもしれない。

たぶん、私はちょっと変わった子、と周りに思われていたのだと思う。

それでも、小学生時代、友人関係で困らなかったのは、周りに嫌な思いがそれほど積み重なっていなかったからだと思う。

転校していなかったら

もし、6年間同じ小学校に通っていたなら、幼馴染とかできてたんじゃないか、という憧れが私にはあった。

しかし、自分を客観的に振り返ったとき、、それは夢で終わると思える。きっと、うまくいく関係性の構築はできなかったと思われる。

というのは、三つ目の小学校には約3年通い、次に地元の中学へ進学すると、中学では小学校時代の友人関係が絶たれ、孤独になってしまった期間があったからだ。

あのとき、不登校になってもおかしくないぐらい友人関係で行き詰っていて、「死んだら心配してもらえるのかな?」とまで考えてしまっていた。

もし、同じ小学校にずっと通っていたならば、この苦しい時期が早くきてしまい、その期間が長かったかもしれないと思う。

というのも、高校も地元の高校に行ったので、この苦しさは高校まで続いた。

そして、短大に進学し、やっと、苦しさの霧が晴れたのだった。